昭和30年12月15日、青森桟橋





重垣:忘れてはならない昭和の一瞬。敗戦の痛手と、前年の洞爺丸台風から立ちなおりつつある青函連絡船の青森桟橋で立番警戒にあたる巡査と、時として自分の体重以上の物資を担いで青森-函館間を往復した担ぎ屋親子の姿を、KAXAKさんに描いていただきました。
湯浅:わたしは昭和30年12月15日。守村の1か月前に当たる日付です。情況は守村の「昭和31年1月15日、青森桟橋」と同じく、青森桟橋で立番にあたる巡査と、親一人子一人、戦争で父親を亡くした戦争未亡人の担ぎ屋親子の朝の何気ない会話を再現しています。内容については、守村が説明しているので、省略します。
重垣:今年(2008・平成20)は、青函航路就航から100年、廃止から20年の節目の年、ぎりぎりで間に合いましたね。
湯浅:ええ。節目の年なので、締めくくりもぜひともこれで行きたいと思いましてね。宗村は「パトレイバーより青函連絡船を切手にすべきだ」と言っていましたが、わたしも同感です。新天地を目指す国内移民を載せた田村丸、比羅夫丸。戦時物資輸送を支え、昭和20年7月13日の青森空襲で、湾外退避の最中に次々と沈められた、戦時標準型の青函丸シリーズ。新型船舶の製造を渋る占領当局を説得、戦後復興の象徴として華々しく就航し、沈没する1か月前には昭和天皇を乗せた、日本最大、世界では2位のワースト記録を持つ、昭和29年9月26日の「洞爺丸台風」の由来にもなる洞爺丸シリーズと、「石炭と鉄は日本復興の原動力」の傾斜生産で、夕張、石狩に代表される北海道の採炭地から続々仕立てられた、「黒ダイヤ」の石炭を載せて内地へ向かった、石狩丸、北見丸。機器の近代化と定時運行を確保するため、主機をディーゼルエンジンに切り替えた、今も各地に保存されている、摩周丸、八甲田丸、羊蹄丸などの最終生産型と、百隻近い船舶が、人々の哀歓を乗せ、津軽海峡を往復しています。
重垣:設定の年になっても実用化される気配のない、夢物語のパトレイバーより、実在し、日本国民一億二千万と苦楽を共にした、激動の昭和、激動の二十世紀を象徴する、各年代の青函連絡船こそ切手にすべきだというのは同感です。ところで湯浅さん(資料を引っ張り出して)、同じ名前の船が青函連絡船・宇高連絡船には多いですね。沈没した洞爺丸と紫雲丸を除いては。
湯浅:わたしは鉄道に詳しくないので、本職の大滝・宗村に聞いてほしいのですが、国鉄の業務を引き継いだJRや各私鉄、造船所に鉄鋼を卸す関係上、知った知識の限りでお答えすると、新幹線のほとんどは、在来線特急の愛称を引き継いでいます。それに、車両の形式が変わっても、特急の名前は変わりません。船の場合も同じで、名前を引き継いでいます。ですので、青函連絡船・宇高連絡船の話をする場合は、区別するため、たとえば、戦災復興で建造された、蒸気タービンの貨車専用船は石狩丸I型、I型が老朽化したのと、定時運行を確保するため、主機をディーゼルエンジンにした貨車専用船は石狩丸II型と便宜上呼んでいますが、国鉄の所有する船舶としての石狩丸は、常に一隻です。新型船が来れば、名前を譲って引退する。新旧混在は、よほどのことがない限り、起こらなかったわけです。
重垣:瀬戸大橋と青函トンネルで日本が地続きになったと大騒ぎになったのが、つい昨日のように思われますが、20年も経ったのですね。
湯浅:20年…、早いものです。わたしはまだ、小学生でしたからね、20年前は。
重垣:えっ…、湯浅さんは、高村・宗村・守村の「年齢詐称トリオ」とともに、青函連絡船・宇高連絡船華やかなりし時代をご存知のはずでは?
湯浅:(しばしの間)高村・宗村・守村は、わたしでも年をごまかしているのではと思いますが、三人とも生年月日は昭和50年代ですし、わたしは、恰幅がよいのが原因なのか、実年齢以上に思われるときがありますが、犬飼さんと同学年なんです。
重垣:えっ、高美さんと同い年!?
湯浅:そんな、驚かなくてもいいでしょう。確かに、髭は自前でドクター・ジョン・H・ワトスンが勤まる外見ですし、「レイヤーズの参謀総長」という二つ名を奉られていますがね。(時計を見て)さて、そろそろ時間ですね。
重垣:では、いつものセリフに移りましょう。このイラストは、管理人がオーダーメイド・コムに発注し、クリエータのKAXAKさんに描いていただいたイラストです。無断転載、無断引用は、お断りします。